香港
文:CAPGON
今からちょうど30年ほど前のことです。当時ボクは小学1年だか2年生だったと思います。オヤジに連れられて生まれて初めて飛行機という物に乗り、海外へと旅をしました。行き先は香港でした。なぜ香港だったのか未だに良く分かりません。確かオヤジの友達だか知り合いが香港にいて、その人に招待されたか呼ばれたかで、訪ねることになったんです。それだけの理由だったと思います。そんなキッカケでも無ければ、未だに香港など行った事は無かったかも知れません。オヤジがどこでどう知り合ったのか、香港在住の中国人で名前を確か『コウさん』とか『ゴウさん』とかいう怪しい人がいました。仕事も何をやっているのか正確には分かりません。オヤジも良く知らないと言っていました。なんだかいつもやたら忙しそうな人で、香港でナニかを仕入れて来て日本で売り、今度は日本でナニかを仕入れて香港に持ち帰り向こうで売る、みたいな・・・その程度のコトしか知りませんでしたが、とにかくオヤジと仲が良く、ビジネスで日本に来た時はたいていウチに立ち寄って行きました。シトロエンの2CVというふざけたクルマに乗ってやって来る、果てしなく怪しい謎の中国人でした。とにかくそういったオヤジの知り合いを訪ねて、初めての海外渡航先が香港ということになり、幼いボクはワケも分からず初めてパスポートを申請し、予防接種まで受けることになったのです。飛行機に乗るのになぜ注射を打たなければいけないのか、ボクにはまったく理解できませんでした。しかし、当時はそういう決まりだったんですね。伝染病予防のために。
出発した空港が成田だったのか羽田だったのか、ぜんぜん憶えていません。たぶんあの当時すでに成田はあったはずです。出来たばっかりの頃で・・・。いや、もしかしたら羽田かもしれません。どっちでもいいか?行きの便はドイツ(当時は西ドイツ)のルフトハンザという航空会社でした。帰りはなぜかパンナム(今は無きパンアメリカン航空)でした。あとから聞いたハナシだと、その怪しいコウさんだかゴウさんって言う人が、現地で安く仕入れてくれた航空チケットだったそうです。ツアーでもなんでも何でも無いので、当然ガイドさんもいません。飛行機の乗務員も全員ドイツ人です。ハナシが通じるわけもありません。機内食もウマくないという思い出しかありません。しかし、その便に日本人のコドモはボク1人だけだというコトで、飛行中のコックピットに案内してくれました。今思えばすごいサービスですね。ドイツ人の機長らしきオッサンが操縦席のあちこちを指差しながら、ボクに一生懸命何やら説明してくれるのですが、当然何をしゃべっているのかさっぱり分かりません。僕はただニヤニヤと笑うしかありません。居心地が悪いのと、少々コワくなってきたボクは早いトコ席に戻りたくなっていました。ボクを客席からコックピットまで連れてきてくれたスッチーのドイツ女は、そんなボクを見て今度は一生懸命英語で説明してくれますが、同じことです。飛行機に乗る前は『操縦席のウインドウから見る景色はどんなんだろう?』と期待していましたが、あいにく夜の便で外は何も見えず、つまらないことこの上ないボクは、『サンキュー』と半ば怯えながらお礼を言い客席に戻りました。今だったらあり得ないサービスです。今のボクならもう帰れと言われるまで操縦席にいたことでしょう。しかし、当時の臆病でシャイな少年のボクは、コドモには退屈だろうと気を使ってくれたルフトハンザの乗務員に、張り合いの無いリアクションをとってしまったのです。今となっては後悔することしきり・・・。
そんなこんなで、初めて香港に降り立ったボクは暑さと独特のニオイに早くもウンザリしながらも、異国の地でクルマウォッチングが出来る期待に少しだけ胸躍らせておりました。・・・が、当時香港はまだイギリスの植民地でした。イギリスと言えば日本と同じくクルマは右ハンドル左側通行の国です。当然香港も同様です。しかも、道行く車のほとんどが日本車という状況・・・。タクシーに乗っても車種はたいていセドリックかクラウン、あるいはブルーバードかコロナという『クルマ大好き少年』にとってはマッタクもってつまらない世界でした。唯一楽しみにしていたロンドンバス(2階建てバス)も、死ぬほど乗り心地が硬く、快適さとは無縁の乗り物でガッカリしました。当時の香港はタクシーにしてもバスにしても、もともと日本なりイギリス本国なりでさんざん使い倒されたド中古を持って来て、香港で第二の人生を送っているというのがほとんどの様で、車の程度が極めてボロイという印象しかありませんでした。
しかし、逆にロールスロイスやベントレー、メルセデスなどの高級車も当時の日本では考えられないほどの台数が走っており、スーパーカーブームの日本でもまず見る事の出来ない様なスポーツカーを、アタリマエに街中で見る事が出来るのも事実でした。世界中の金持ちが集まっている所でもあったわけですね。
これはボクがもう少し大きくなってから知った事ですが、香港はいわゆる自由貿易港です。税金も無いに等しい国です。税金が無いというコトは社会福祉制度も確立されていないというコトです。つまり、それは貧富の差が激しいというコトです。お金持ちは果てしなく金持ちに、貧乏人はとことん貧乏というコトですね。豪邸に住み運転手付きのロールスに乗っている裕福な人も多いのですが、反対にとてつもなく貧しい暮らしをしている人もたくさんいるんですね。
ホームレスなんていう呼び方をしたりしますが、地面の上で生活できればまだマシな方で、さらに貧しい人々は海上で生活しているんですね。水上生活者と呼ばれる彼らは木造の粗末な船を住居とし、生活の全ては水上で営まれているんですね。今にも沈没しそうなボロ船(というか家)がひしめき合うすぐそばを、金持ちのクルーザーやモーターボートが行き交うという、恐ろしく明暗のはっきりした世界を目の当たりにして、まだハナタレ小僧のガキンチョながらもボクは少なからずショックを受けました。
ショックと言えば、香港を訪れて驚いたコトや困った事は他にもいくつかありました。特にいちばん困ったのはトイレでした。もうかなり昔の話なので、現在はだいぶ様子も変わっているかも知れませんが、当時、香港は慢性的な水不足に悩まされていたようです。上下水道の整備が遅れていた、というよりも蛇口はあっても水は出ない、という感じでしたね。ホテルの客室のバスルームなどは、さすがに水は出るのですが、非常に頼りない水量でイラ立つこともしばしば・・・。それでも水が出りゃマシな方で、外に出てちょっとトイレ行きたくなった、なんてトイレを探し用を足しに行っても、とてもする気にはなれないほどヒドイ状況が待ち受けているのでした。要は水が出ないんです。用が済んで流そうにも水は一滴たりとも出ないのです。ちょっとしたホテルのトイレや大きなレストランのトイレでさえそういう状況でした。しかし、人間の生理現象に逆らう事は出来ません。立ちションや野グソが出来るほど香港は田舎ではありません。地盤が固いせいもあって、近代的な高層ビルが立ち並ぶ大都会です。誰もが催せばとりあえずトイレに行くしかないのです。ところが、出す物出しても水は出ない。その繰り返しです。となると、どういうコトになるか想像できますか?良く『地獄絵図』なんていう言い方をしますが、戦争もテロも食糧危機も経験したことの無いボクには、今までの人生で地獄を見たのは唯一、あの時だけだったと言っても華厳の滝でしょう。汚いハナシで大変申し訳無いのですが、ホントに要するにトイレの中が『ウンコまみれ』なのです。便器に座ることすら出来ないんです。だってウンコが山盛りで便器から溢れているんですもの・・・。その後何度か香港を訪れて、最後は確かボクが19かハタチの頃に行ったのですが、その頃でも水不足はなかなか改善されていなかったみたいです。どこかのレストランで昼食をとっている最中に、ボクは不覚にもウンコがしたくなり、いそいそとトイレに行ったのですが、やはりそこはウンコワールドと化しており、結局目的は果たせず食事も続ける気が失せるという、なんともファンタジックな思いをしたもんです。シャネルやグッチ、ルイヴィトンにクリスチャンディオールなど・・・高級ブランドのショップも多く綺麗な建物が並ぶ街ですが、一部を除いてほとんどのトイレがそんなお粗末な状態だったんですね。あの光景とニオイは今でも忘れられません。たまに夢に見るほど・・・。
トイレのハナシのついでにもうひとつトイレに関係するハナシを・・・。要するにちゃんと水の出るトイレを探すのにひと苦労だったわけですが、やっとこさ『おっ、ここはイケそうだ』と思って入ると、金を取られたりするんですね。これは香港に限らず他の国でも良くあるコトだと思いますが、当時のボクは『なんでウンコするのに金払わなくちゃイカンのだ?』とえらくフンガイしたのを憶えています。トイレに入ると、隅に小さなイスとテーブルが置いてあって、たいていジイさんかバアさんが座っています。で、お客(?)が用を足し終えて手洗いに近づくと、すかさず駆け寄って来て蛇口をひねってくれる、そして石けんも差し出してくれるんですね。で、手を洗い終わったら、タオルまで差し出してくれるんです。最後はドアを開けて送り出してくれます。お客は極力手を使わず、あちこちあまり手を触れなくて済むのですが、当然ながらチップを払わないといけないんですね。中にはトイレの壁に明確な料金が張り紙されていたケースもあったと記憶していますが、たいていはチップですから、そのサービスに対して幾ら支払うかはその人の気持ち次第です。最初のうちは幾ら払えば良いのか分からなかったですねー。何よりトイレに行くのにいちいち小銭を用意しなきゃいけないのがメンドクサくて・・・。何度かシカトして逃げたこともありました。しかし、それを生活の糧としている人もいるわけで、1日トイレの中で過ごすという考えてみればナンとも渋い仕事ですね。後からコウさんだかゴウさんに聞いた話だと、そのサービスは初めに断ることも出来るそうで、石けんもタオルも『ノーサンキュー』だと言えば良かったらしいです。
それまでまったく外国に行った経験の無いボクは、初めて知る妙なとまどいを異国のトイレで味わうのでした。と、同時にどうせお金を払うなら、このサービスは少々ツメが甘いのでは?という考えも浮かびました。なぜなら、このトイレのサービスを行う人はほとんどの場合ジジイかババアです。まずこれが問題。ボクだったら絶対若くて綺麗なオネエチャンを起用すべきと考えます。そして、用を足しに来た客の手をわずらわせず、また汚すこともなくというコトを考えるなら、ズボンのチャックを下ろすところからスタートして欲しいですね。その後はもちろんポ○チンを取り出し、しっかりと便器に狙いを定め、さらに用を足している間も誤射を防ぐため、ずーっと手を添えて銃身をホールドしておいてくれるのです。最後は2、3度振ってしずくを切ってくれ、ズボンの中に収めてファスナーを上げてくれると・・・。どうせなら、ここまでやって欲しいですね。ちなみにこれはおしっこの場合です。『大』の場合はオプションと言うか、希望者のみというコトで・・・。などとくだらないコトを言っとりますが、とにかくトイレでは苦労したなぁ、というのが思い出であります。
他にもいろいろと日本では考えられないような経験もしました。ある日の昼下がり、街の中を歩いておりますと、道の真ん中で大勢の人が集まり火を囲んでいます。なぜ道の真ん中でキャンプファイヤーを?と思っていると、コウさんだかゴウさんが『あれは葬式である』と教えてくれました。街の通りの真ん中で火葬しているんですね。今でもそんな野蛮な風習が残っているかどうかは定かではありません。しかし、30年前の香港では実際にやっていました。良くガイドブックでは治安の問題とか、衛生面で心配があるからという理由で、こういう場所に行くな、こういう所で食事をするな、という注意書きがあります。香港に限らず、よその国でもそういうコトは多々あるでしょう。でも、ガイドブックには載っていない、一般の観光客には知られざる所にこそ、その国の本当の魅力があったりするものなんですね。ある意味オヤジはそういう経験を身を持ってさせてくれたとも言えます。日本人などは絶対に行かない(行ってはいけない)様な所にズカズカと行き、観光客はまず訪れないような店でメシも食いました。怪しげなインド人に追いかけられたり、ボッタクられたりコワイ思いもしました。あの頃オヤジはまだ若く、そしてチャレンジャーだったのでしょう。昼も夜もボクらを連れ歩き、いろんな体験をさせたのです。しかし、なんせかなり昔の事だったので、ほとんど記憶が曖昧になってしまっています。しかもボクはまだコドモだったので、モノの見方も考え方も今とはだいぶ違っていたと思います。基本的に今も昔も香港いう所は、オコチャマでは楽しめず魅力も理解出来ない所なんだと思います。実際、その後もオヤジに連れられて何度か訪れましたが、毎回『暑い』だの『だるい』だの『ツマラナイ』だのと言ってゴネてばかりいて『早く帰りたい』とばかり考えていたような記憶しかありません。オヤジはそんなボクに『なぜここの楽しさが分からんのだ?』と言うような顔をしていました。しかし、ボクもある程度大人になり、最後に訪れた時だけはなんとなく香港の魅力みたいな物を少しだけ理解出来た様な気がします。
香港は買い物と食事をまず楽しむところです。どちらも大人でないと堪能できない事です。確かにメシはウマイです。中華街のある横浜生まれの横浜育ちであるボクでも、さすがに香港の食べ物は違うと感じました。日本の中華街の食べ物は、あくまでも日本人の口に合う様にアレンジしてあるのだと実感しました。そして、お買い物好きにはたまらない国なんだろうとも思います。確かにあらゆるモノが安いです。ボクも金ムクのロレックスを1000円で買いました。やがて訪れるバブル時代には、多くの日本人がブランド品を買いあさりに香港へ飛びました。ボクが初めて香港へ行った時には、確か1HK$が40円か50円くらいだったと思います。その後、円が上がるにつれさらに買い物するには良い国になりました。しかし、多くの日本人はブランド品を買いまくり、ガイドブックに載っているその辺のレストランで適当に食事して帰国するだけだったのでは?とも思えます。せっかく異国の地を訪れるチャンスに恵まれたのだから、うすっぺらな経験だけで帰るのはバカらしいと思います。何も危険を冒してまで深く踏み込んでいく必要はないと思いますが、訪れたその土地の本当の魅力を知る努力をして行くべきですよね。ヴィトンのバッグを買って帰るだけなら、それこそコドモでも出来ます。物事の本質を知るには、表面上だけ見ていても何も分からないと思います。旅はその事を身を持って教えてくれるものです。
今はもう、仕事や生活に終われ(経済的な問題もありますが)ゆっくり旅をする機会もなかなかありません。まして外国に旅行に出るなど、今はとても出来そうにありません。『可愛い子には旅をさせよ』という言葉があります。『百聞は一見にしかず』とも言います。いろいろな土地で様々な人に出会い、多くの経験を積む事はきっと心も豊かにしてくれるモノだと思います。大人も子供も時には旅をすることも必要だなと感じます。しかし、無理して遠くに行こうとする必要はないでしょう。日本国内でもまだまだ行ったことの無い場所はいくらでもあります。まずは手始めに近い所から出かけてみても良いですね。
ボクも今度の休みには、ガレージからホコリをかぶったカプリスを引っ張り出して、旅に出てみようかな?